マアヨンブンタン!唐仁田 郁夫(カラニダ イクオ)です。
久しぶりにコラム変態手帳を更新したいと思います。
ググれよ。ってなんて無機質で贅沢な言葉。
まず日本人の皆さんは「ググる」という動詞をもう既に使いこなしていると思います。その命令形であるググれ+よ。これで
「お前そんなの人にきく前に自分で調べろよ。」
という意味の言葉になります。私も日本にいる時はほぼ毎日2 ~ 3回は言っていたと思います。私は調べれば分かることを人に聞く人が大嫌いでした。 それは質問ではなく、検索の代行だから です。
そんな訳で散々人にググれと言って生きてきました。しかし最近「ググれ。」ってなんて贅沢な言葉なんだろう。と思うようになりました。きっかけはフィリピンに移住したことです。
フィリピンで暮らし始めてから日本にいる時以上に「ググれよ。ググれよ。」と毎日のようにスタッフに言いまくっていました。あるとき、なんでこいつらはこんなに俺に「ググれ。」と言わせたいのだろう。と考え始めるようになりました。彼らは怠慢で、ググることもしたくないのか・・・と最初は考えていました。
あるとき、私の家のネットが突然繋がらなくなりました。そのとき、私はロードの仕方もわからず、Wi-Fiが使えるカフェのオープン時間もわからず、 初めてググれば分かることを人にメッセージで聞きました。
「あそこのカフェって何時からだっけ?」
「ロードってどこで出来んの?」
※フィリピンでは、スマホはチャージした分した使えません。チャージすることをロードと言います。
思えばメッセージを送られてきた人は「いよいよこいつ狂ったか。」と思ったと思います。しかし、ロードがないのでもう人に聞くしかないのです。(FBメッセンジャーは無料で使うことができます。)
その時にハッとしました。「ググる。」ってなんて贅沢な動詞なんだろう。 例えば一部の金持ちがキャビアを食べることを「キャビアる」というのと同じようなこと です。
「今日キャビアるか〜。」
これがどれだけ贅沢か、分かると思います。セブ島において、「ググれよ。」はとりあえず腹減ったなら「キャビアれよ」と同じくらい豪華なことなのです。それと同時に、ググれよ。の1つでコミュニケーションが終わってしまう贅沢で便利なコミュニケーションは、無機質であると感じました。
テクノロジーとは。
テクノロジーと聞くと、謎の光がうごめいている無機質な物体を想像する人が多いと思います。それは私の勝手なイメージかもしれませんが。とにかく、テクノロジーと聞いて暖かいものをイメージする人はまずいないと思います。
確かにテクノロジーは冷たい無機質なものです。しかし、それを使う人間の心が暖かければ、テクノロジーは温かさや優しさを生み出す道具にもなりえます。
こちらをご覧ください。
こちらは自宅で飼っていた犬のアカウントです。残念ながら1年半前に亡くなりました。実家には写真が飾られているので、毎日思い出すことができますが、私はセブ島で1人で暮らしています。忙しい日々のなかで忘れてしまうこともあります。しかし、Twitterでこのアカウントを見るたびに愛犬を思い出すことができます。
そして、Twitterという会社が倒産し、サービスが終了するまではこうして、まるで生きているかのように毎日でも愛犬に会うことができます。テクノロジーは、暖かさも作り出すことができます。
ググれ。という便利な言葉はあれど、それを無機質なものにするかしないかはそれを使う人によって変わってくるのだと思います。
テクノロジーのおかげで亡くなった愛犬に会うことができます。もう動かないけどね。