「たかが生まれた環境や国だ」と思いたい一方で、それが人生を決定づけるという現実を目の当たりにして、「運命」という言葉の意味を考えざるを得なくなってしまった。
裸足で、サイズの合わない破れた服を着た子供たちが僕のところに近寄ってきて片手を差し出す。もう慣れてしまって、彼らに対して一々慈悲などを覚えなくはなったが、お金を渡すときいつも思うことがある。
「あのお金どう使うんだろう」
僕が5ペソを渡すと、彼らはそのまま硬貨を握りしめてその場を去ろうとする。その時に「ちょっと待て」と声をかけて、もう20ペソ渡そうとすると、驚いた顔で僕をじーっと見つめながらそれをさっと取って背を向ける。
正直、人の生活の心配ができるほどお金に余裕がある訳ではないが、なんとなく、これで人を救えるんなら安いものなんじゃないかなと思ってみたりもする。
どうか彼らがそのお金で1日を生き延びて、また1日を生き延びて、いつか正しい方法でお金を稼ぐ術を身につけて欲しい。あるいは、彼らにもそんな機会が恵まれるようになる時まで生きていて欲しいと思う。
それと同時に、僕のしたことは、運命に反抗するんだろうか。人が人の運命に介入しても良いものなんだろうか、という疑問も頭を過ぎる。
話を「運命」という言葉の意味に戻すと、セブにいると、生まれた瞬間に人間の一生が決められているというある種の宿命論に真っ向から反論する勇気はどうもなくなってしまう。
生まれた時から、人に手を差し伸べなければ1日を生きることもできない彼らと、生まれた時から新品の洋服を着せてもらい、指をさせば好きな物を食べさせてもらうことができた僕たちの人生が、どこかの点で交わり、あるいは、逆転する可能性があるなんていうことを到底信じることはできない。
教育を受ける機会も医者に行く機会も与えられている僕らが、何の機会もなく、言い方は悪いが、生まれてしまったから生きているだけの彼らの人生を変えることなんかできるんだろうか、と。あるいは、できるとして、そんなことをしても良いんだろうか。
社会は彼らを救うことはできない。生まれた環境で一生が決まってしまう彼らの人生を、社会はどうしたって救うことはできない。
だから「運命」を感じざるを得ない。ロマンチックでもなんでもないが、僕は生まれて初めて、「運命」という言葉でしか形容できない現実を目の当たりにしている。
そういえば、酔っ払っているときに、上司がこんなことを言っていた。
「社会が救えなかった人を唯一救えるのが神なんだよ。」
僕は「運命」について考える時、初めて「神」の存在意義を理解した気がした。